プロヴァンス滞在記
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24.ボニューについて (Bonnieux)
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ボニュー(Bonnieux)の歴史について触れているガイド本は少ない。
参考までに、ツーリストインフォメーションで配布されている資料を要約してみた。
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街の正面の高台からのボニューの眺め。
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中世の城壁。
左側は、今回の滞在で最後の1週間利用した、
ユセグリオさんのアパート(Gite)。
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ボニューは、新石器時代から青銅器時代まで人が住んでいた要塞都市だ。
ガリア・ローマ時代は現在よりも下部に村があった。 村は当時ビトロナ(Bitrona)と呼ばれていて、ミラノからカディスまでを網羅した、いわゆるローマ街道において、ルールマラン谷(Combe de Lourmarin)を通り抜けるコースの重要な中継点になっていた。ジュリアン橋はそのなごりだ。
中世になると治安上の問題から、ローマ時代より上の、ケルト時代に要塞都市があった場所(現在の場所)に村が作り直された。
972年には既に砦と防御壁が出来ていた。
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12世紀にテンプル騎士団がサン・ソヴール礼拝堂(注1)を建てた。 12世紀と14世紀には、平野から武装団が襲って来る危険があるため、住民は有力領主のアグルト(Agoult)家の所領のキャステラ(Castellas)と呼ばれる地域の城砦や教会に避難した。 この頃、村は4つのエントランスタワーを持つ城壁で囲まれていて、その遺構は現在でも多く見ることが出来る。
1312年までボニューはテンプル騎士団のコマンドリーだった(注2・3)。
その後1791年までは、村はバチカン領になる。 ローマカトリック教会に属する事でボニューはプロヴァンス伯爵領内の特殊領域となり、その為、地域の歴史からは離れることになる。
この頃の人口は3500人位、数人の高位聖職者が常駐する義務があった。
村は1247年にトゥールーズ・レモン伯によって与えられた特権によって利益を得ていた。
村の紋章はその頃の繁栄した時代を表している。
1793年の協約によってボニューはコンタ・ヴネッサン(Contat Venaissin)に併合されてフランスになる。
注1)サン・ソヴール礼拝堂
St Sauveur chapel。上の古い教会のロマネスク様式の部分。
注2)コマンドリー
commanderie。 テンプル騎士団のコミュニティの最小単位。 修道院と聖堂と荘園、およびその付属施設で構成され、城塞による防御構造も持つ。
注3)1312年
テンプル騎士団の莫大な財産に目をつけたフランス王フィリップ4世の策謀によって、テンプル騎士団は1307年から全ヨーロッパ規模での異端審問(魔女狩り)の標的になる。
1312年は、そのためにテンプル騎士団が解散した年にあたる。
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中世の城壁に接して建てられた
ユセグリオさんのアパート(Gite)にて。
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ユセグリオさんのアパートにて。
広い敷地の一辺はすべて中世の城壁。
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夕方、ボニューの街中で。
夕方とはいっても、8時半過ぎ。
この時期は、こんな時間でもまだ明るい。
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以上がおおよその訳なのだが、こういったボニューの歴史を踏まえて街を歩くと、また違った見方が出来て面白い。
中世の街造りおいては、防御はとても重要な要素だった。 他の村も同様ではあるのだが、ボニューの街中に見られる複雑な街の造りも、それを思い出せば納得がいく。
残念ながら、中世の城壁や城砦のほとんどは取り壊されたり建物の一部になってしまったりしていて、現在は痕跡という程度しか残っていないのだが、それでも街を歩いていると、当時の雰囲気を感じさせるものはある。
( 2002/06/18 作成 )
( 2005/06/02 修正 )
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